パペポTVの番組史に残るエピソード ・出来事


鶴瓶は「通常あまり遭遇しない事態」に巻き込まれる(一説には自分から巻き込まれていく)ことが多く、数多くのエピソードがある人物である。この番組が始まる以前から、上岡に会うたびに「何かおもしろいことはなかったか?」と聞かれて話をしていたという(その雑談がパペポTVの原型といわれる)。従って、主に鶴瓶のエピソードが番組内のトークの骨格となっていると言っても過言ではない(番組後期では上岡のひとり話も目立ったが)。 ただ、鶴瓶のエピソード(鶴瓶噺にも通じる)だけではパペポTVとはいえず、上岡がうまく話を整理したり、あおったり、断固否定したり、理不尽な対応をしたり、時には自説をねじ込んだりすることで鶴瓶のトークにおもしろさが生まれ、やがてパペポTVのエピソードとなったものも多い。下記のエピソード・出来事は、やはり鶴瓶・上岡両人が揃ってはじめて成り立っていたものといえる。

「ものまねタクシー運転手」
1989年7月。仕事柄タクシーに乗る機会の多い鶴瓶だが、ある日乗ったタクシーの運転手は、いきなりものまね、しかも動物のものまねという、聞いているのが苦痛となるような芸を始めてしまった。これだけでもあまり遭遇しない事態といえるが、収録時に話をしても信用してもらえなかったので、スタジオ内に電話を用意してもらい、その運転手に直接電話をかけて確認してみようということになった。運良く運転手がつかまり、鶴瓶の好リードで運転手のものまねを引き出すことに成功した。スタジオも大爆笑となり、鶴瓶の話が事実であるということが証明された。

「怒りのバンクーバー事件・通訳しなはれ」
1989年8月。上岡に「一流スターの証明」と冷やかされるほどの長期夏休みをとった鶴瓶は、1989年の夏にバンクーバーを訪れた。帰路につく際、空港のカウンターで手荷物が出てこないことを空港職員に訴えたが、ぞんざいな対応をされてしまった。それだけならよかったが、次の訪問地であるハワイ行きのCP(当時のカナディアンパシフィック航空)便に乗り込んだところ異常が発生し出発しない。
それまでの応対に立腹していた鶴瓶は、日本語での案内がないとCPの担当者に食ってかかるが、当然通じないので、近くにいた日本人に同時通訳を頼み、猛烈に抗議した。通じるはずもない大阪弁でまくしたて、ひととおり啖呵を切ると「通訳しなはれ!」とその日本人に通訳をさせた。はじめは穏やかだったその日本人も、鶴瓶の勢いに押されて激しい調子で通訳した。結局その飛行機は飛び立てず、代わりの便をファーストクラスに振り替えさせて中継地のロサンゼルスに向かった鶴瓶だったが、ここでも次のハワイ行き便に異常が出たため足止めをくらうなど散々であった。
話はこれだけでは終わらず、ハワイからの帰りの便の飛行中、警告音が鳴り響いた。乗務員に訳を聞くと、はじめは重量オーバーとのことだったが、よく聞くとエンジンの半分が不調だということがわかった。恐怖の中で「二度あることは三度ある」という言葉を身にしみて体験した鶴瓶だったが、ハワイからの飛行中に無線らしきものを使っている若者がいたので、降りる際にとがめると、ふてくされた態度をされたり、叱る様子を写真に撮られたりした。あまりに自分の思いが通じていないことに憤った鶴瓶は、「通訳しなはれ!」と言い放った(この部分のみ鶴瓶の「まとめ」である)。

「餃子二重発送事件」
1990年1月。鶴瓶は上岡に、前年のお歳暮として大阪地区で有名な点天の餃子を贈った。事前に確認してから送ったにもかかわらず、上岡が「届いていない」と言うため、鶴瓶は弟子や夫人まで巻き込んで点天に発送を確認するなど大わらわとなった。しかたなく点天側も再発送したところ、結局先に送ったものも届いており、二重発送の事態となった。
上岡に言わせれば「自分が美味しいと思ったものを他人も美味しいと思うというのが間違い」ということで、あまり関心がなかったものと思われ、事実食べきれないので近所に配って回ったらしい(ただし鶴瓶も一口餃子とはいえ一度に200個分送ったらしく、上岡家で食べきれなくて近所に配るのも不思議ではない)。これを聞いた鶴瓶は「人間性疑いますわ」と大いに憤慨していた。これ以降、ひどい仕打ちを受けるたびにこの話題を持ち出していた。

「健さん登場」
1991年1月。このころすでに「あまりに話ができすぎているので事実をねじ曲げているのでは」との疑いをもたれていた鶴瓶は、とにかく通常では体験できない事態に遭遇することを証明しようとしていた。1990年の暮れ、打ち合わせでよみうりテレビ内のレストランを訪れた鶴瓶は、近くの席に疲労困憊して突っ伏しているコックを見つける。その人の名札を見ると、「健(すこやか)」さんという珍しい苗字の人だった。
「名前が健やかなのに健やかやあらへん!」という、鶴瓶噺におあつらえ向きのケースだったが、誰も信じようとしないので、1991年の新春スペシャル収録中、わざわざ健さんを呼び、「わたし、健です!」と叫ばせた。これで一同鶴瓶の話に納得したが、観客の一人が「大した話ではない」というので、聞いてみるとその人は「黒丸」という珍しい苗字だった。

「阪急苦楽園口駅・電話ボックス破壊事件」
1991年5月。ある日鶴瓶が自宅に戻ると、家族がいなかったので、行きつけのうどん店に行っているものと考え、このころのマイカー・日産ローレル(ゴルフコンペの景品)で後を追うことにした。阪急電車・苦楽園口駅の近辺にあるうどん店を目指したが、なかなか車を停めるところがなく、ようやく縦列駐車できそうなポイントが見つかった。しかし、まだ免許を取って時間が経っていなかった鶴瓶は、縦列駐車に慣れていなかった。斜めにバックしたときに、「ガンッ」という衝撃を感じたが、縁石に擦ったものと考え、「ここは合わない」ということで他の場所を探してそこから走り去った。
近くに駐車してうどん屋を目指すと、さきほど駐車しようとしたところに人だかりができているので、近寄ってみると電話ボックスのガラスがメチャメチャに破壊されていた。目撃者もいたので鶴瓶は逃げることもできず、交番に行って事故処理を依頼した。事故状況としてはガラスが割れただけだったが、交番の巡査は「電話ボックスに車が飛び込んだ」と指令を出し、大がかりな処理班が来てしまう事態となった。
鶴瓶は「カレーうどん」が食べたいだけだったが、事故を起こした人間がその場を離れて「カレーうどん」を食べるわけにも行かず、しかたなくガラスの掃除などをしながら処理班の到着を待った。しばらくして大勢の処理班が到着したが、NTTの担当によると「この程度なら2人で済む」ようなものだった。鶴瓶は陳謝したが、NTTの担当者は「あぁ鶴瓶さんですか。やすしときますわー(安くしておきます)」と拍子抜けな対応だった。それならまだしも、「これを機にひとつよろしく」と、逆に営業をかけられる始末であった(もちろんこれはNTT担当者の茶目っ気である)。
鶴瓶の運転歴の中では、人身事故ではないものの、かなりの騒動となったため、この事件によって「運転が下手」という印象がかなり強いものとなった。

「昆布の味 涙の抗議」
1992年1月。先の餃子事件のあとも、味覚に関する話題は終わらなかった。ある時上岡が「塩昆布は安物がうまい」と発言した。どちらかというと下品な味がよいということだったので、その道の味にうるさい鶴瓶は姉から聞いていた奈良の昆布屋(いわゆる高級品ではないとされる)に塩昆布を手配して贈り、上岡をうならせようとした。しかし1992年の年明け1回目の収録前、上岡は弟子に対して「君の贈ってくれた昆布はうまかった」と話した。そこには鶴瓶も同席しており、鶴瓶にとっては当てつけのように感じられた。
前々年の餃子事件に続き、前年に牛肉を贈った際も大して喜ばれず、3年続けて自分の味覚・善意(自身の生い立ちが色濃く反映されている)を否定されたと感じた鶴瓶は、番組開始直後から猛烈に上岡に食ってかかり、弁解をも許さないほどであった。その回は過去に論破された話題を次々持ち出して大激論となるなど荒れた回となった。
後日鶴瓶には当の昆布屋から「さらに精進します」という手紙が届いたので、番組内で紹介して上岡の非道ぶりを印象づけようとしたが、逆に返り討ちに遭い、他の嗜好に関しても完膚無きまでに「下品」と指摘された(たとえばピロシキ好きを下品・粗野などと決めつけられるなど)ため、両手を振り回して大暴れするなど、鶴瓶の暴走ぶりが目立った時期でもあった。

「鶴瓶の暗証番号公開される」
1995年6月。この回は2本録りの2回目で、ハワイ帰りの鶴瓶は時差ボケで苦しんでいた。収録のしばらく前のある日、鶴瓶は名古屋に行く用事があったが、所持金が少ししかなく、しかも祝日でATMが使えなかったため、カードキャッシングを使うことになったらしい。トーク中に現金を下ろす話をはじめたとたん、上岡が「暗証番号を当ててやる」といってある番号を口にした。すると鶴瓶は大笑いしつつも狼狽し、なんとかして否定しようとする。しかしその様子からは番号が図星であることが丸わかりだった。上岡があまりにしつこく番号を言うので、「ええ加減にしなはれ!」とつかみかかり制止しようとするシーンもあった。
実はその日、2本録りの1本目に怖そうな二人組が来ており、1本目の回ではほとんど笑わなかったので、「怖い人」と思って鶴瓶は気にかけていた。1本目は先着順なので、やれやれ2本目は大丈夫と思っていると、2本目にもその二人組がいた。鶴瓶にとっては睡眠不足と恐怖感の中でのトークであり、そんな中で暗証番号が公開されたとあっては狼狽するのも当然である。ほとんど笑わなかった二人組が暗証番号の話になると大笑いをはじめたので、何度も「この番号じゃないですよ!」と念を押していた。あとで聞くと、特に「怖い人」ではなかったらしい。
この公開を機に、番組視聴者を中心に「鶴瓶の暗証番号は○○○○」という認識が生まれ、後日鶴瓶がATMに並んでいると、どこかの女性が「暗証番号、○○○○ですね?」などと話しかけたりした。
類似のケースとしては、後年鶴瓶の携帯電話の番号が公開された(というより誰かが公衆電話にいたずら書きした)というものがあり、この時は見ず知らずの一般人から電話がかかってくるなど大変だったようである。しかし、鶴瓶もあまり怒ることなく話を聞くこともあり、そんなときはかけた方がかえって狼狽してしまうこともあったようだ。

「PAPEPO TV in New York」
1996年9月。それまでに大阪城ホール・日本武道館での講演が成功し、前年に上岡が独演会を開催した時に失敗の連続だったこともあり、リヴェンジもかねてパペポ公演としてのニューヨーク遠征が計画された。9月28日、タウンホールにて開催、入場料は20ドル。全編のテレビ放映はなく、1997年元旦スペシャルと、日本テレビとの共同制作で放送された報道番組「スーパーテレビ情報最前線」で紹介されたのみである。ただし「スーパーテレビ」では鶴瓶と上岡の密着取材と、イベント制作に至るまでの舞台裏を紹介する内容が大半を占めており、ニューヨークの舞台上でのトークは終盤にほんの僅か(1分程度)映し出されただけであった。現地在住の邦人を中心に入場者数は1475名、入場できなかった人も約200名に達する人気であった(人数は番組で発表された数値)。

「500回記念生放送」
1997年4月。番組500回目を記念して観客を入れずに生放送が行われた。しかし当日は読売ジャイアンツの開幕戦の中継のため最大2時間の放送延長が行われる予定となっており、試合が長引いたため野球中継は最大枠で延長された。このあおりを受けて生放送の開始時間も2時間遅れとなり、午前3時40分からの放送という、もはや早朝番組に近い時間帯での生放送となった。番組の終盤で上岡が鶴瓶をそそのかし、生放送であるにもかかわらず放送禁止用語(関西弁で女性器の意味を表す俗語)を鶴瓶が言ってしまったところで提供に入り、生放送が終了した。ただし日本テレビを始め同時ネットされていない局では上からピー音でかぶせられていた。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

パペポTVの概要・エピソード


ルーツ
この番組は、よみうりテレビディレクター(当時)の白岩久弥と構成の疋田哲夫が「(笑福亭)鶴瓶で番組を作ろう」と企画したのが始まりで、鶴瓶が共演相手に上岡龍太郎を指名して番組が始まることになった。しかし、肝心の番組内容がなかなか決まらず、結局「2人に決めてもらおう」ということで、特番で「鶴瓶上岡・激突夜話」(つるべかみおか・げきとつやわ)が組まれる。ここでの2人の会話が後のパペポTVのスタイルになっている。
実は番組開始前、上層部やスポンサーは鶴瓶と上岡の2人のトークだけで60分の番組を作るという企画内容に難色を示していた。このため白岩は、実際の番組企画とは異なった色々なコーナーを織り交ぜたニセの番組企画書を作成し、企画が通るや否やこれを翻し、自分のやりたかったトーク一本の番組を作るという強引な手法で番組の放送枠を獲得したというエピソードがある。
番組タイトル
「パワフルな二人がペアを組んでポップなノリで話を提供する」の略と一般的に言われているが、これは後からあいうえお作文として作られた文章であって、タイトルの由来ではない。本当のところは、大きく口を開けて、その中に握りこぶしを突っ込みながら、関西弁で女性器を発音すると、そう聞こえることから名づけられた。番組タイトル案は50種類用意されていたが、49番目に作られたこの意味不明の余り物的なタイトルがスポンサーの郵便局に気に入られて、採用されたという経緯がある。ちなみに鶴瓶は新春番組「おめでとう!パペポ」のタイトルを、番組内で「おめポ」と略したことがある。また上岡も「マラソンパペポ」という企画はどうかというを話をしていた際に「マラポ」と略して言ったことがある。
ぶっつけ本番のトーク番組
タイトルが示すとおり、鶴瓶と上岡の2人が、60分間トークのみという形式。最近の時事問題から2人の身近な話題に至るまでシナリオなし、ぶっつけ本番の毒舌トークを展開。放送禁止用語も多く飛び出し、観客・視聴者を笑いの渦に巻き込んだ(実際には台本はあったのだが、番組進行に関する部分は「オープニング、2人が登場、舞台の中央に立ってエンディングまで止めずに収録」としか書かれていなかった)。また、60分番組(CMを除くと実質47〜48分)であるがスタジオでの収録時間も50分〜60分前後しか行われず、エンディング後の観客とのやりとりを除いてほとんどカットされずに使用されていた(ただし、後期には収録終了後の模様も時々放送されていた)。
ゲストは通常呼ばずに2人で進行するのであるが、ほぼ毎年恒例となっていた新春スペシャルでは横山ノックが登場。大阪府知事になった後でもよほどのことでない限り登場した。他には通りすがりに横切ったあのねのね、酔って乱入し暴れた桂ざこば(当時は桂朝丸)、交通標識を倒し逮捕された顛末を話した北野誠、化粧まわし姿でレコードの宣伝をした大空テント、客席から引っ張り出された甲斐よしひろ、相撲甚句を歌わせるために呼ばれた桂文福、そして第6回目の放送で乱入して性的な発言を連呼し、この回に限り郵便局がスポンサーを降りる事件にまで発展した元AV女優の黒木香、鳩に色彩をつけようとしてスプレーを吹き付け、羽を固めてしまったことが番組で話題になった手品師、一陽斎蝶一などがある。
ゲストではないが、鶴瓶の話を補足するために笑福亭晃瓶・笑福亭瓶二も登場した回があった。
関西ローカルから全国ネットの人気深夜番組へ
元々は関西ローカルの番組であったが、たまたま出張で大阪に来ていた日本テレビのプロデューサーの目に留まったのと、1988年10月から関東圏の民放各局が24時間放送体制を取ることになり深夜番組を大幅に追加する必要性が出たこともあって、同月より月曜日深夜の「週刊テレビ広辞苑」、水曜日深夜の「藤本義一のおもちゃ箱」とともに東京進出、全国ネット化する(全国ネット開始当時、日本テレビではこれらの番組はすべて月曜日の深夜に放送され、深夜1:10 - 2:05に「パペポTV」、2:05 - 2:35に「週刊テレビ広辞苑」、2:35 - 3:05に「藤本義一のおもちゃ箱」と、3本続けて放送されていた)。これがきっかけとなり、鶴瓶・上岡両名が全国区人気を得ることとなった。
1990年頃のデータによると、平均視聴率は深夜1時過ぎからの放送にもかかわらず関西で5%、関東でも3%前後取っていた。ちなみに、テレビ番組ガイド誌の企画で「放送時間中は寝ているが、後でビデオ録画したものを視聴している層」を含めて視聴率を調査し直したところ、その合計はゴールデンタイムの人気番組並みの19%にものぼることが判明した。また、関東でも5%近いビデオ視聴者層がいた。このことからも、深夜番組としては異例の人気ぶりであったことが伺える。
また、芸能界にもパペポファンは多く、番組で紹介されただけでも黒柳徹子、加賀まりこ、梶芽衣子、萩原流行、加藤茶などがいた。また、ロンドンブーツ1号2号の田村亮は「高校時代、毎週のように観覧し、単位を落としそうになった」と鶴瓶に別の番組で共演した際に打ち明けた。
無駄を省いた編集手法と「マル禁マーク」の発明
パペポでは、現在のトーク番組の基本ともいえる、突っ込みテロップ・話題になった人の顔写真・サイドスーパーなどを全くと言っていいほど使用しなかった。1996年の新春スペシャルのエンディングで客席へ質問を募集した際、観客から鶴瓶に対する質問の声が聞き取りにくかったため、フォローするためのテロップを使用したことがあるが、「鶴+龍」時代を含めて13年間の放送の中でトークの内容についてテロップ・スーパー類を使用したのは、このときの一回限りである。このことから、この番組では純粋にトークだけで勝負をしていた番組と言える。
ただ、さすがに放送禁止用語や放送上不適切な発言をした場合は、当初は音のみをカットしていたが視聴者から「何を言っているのか分かる」と指摘されたため、テレビで見ても分からないように、口元を黒枠で隠し、後に顔全体を「○の中に『禁』」と書かれたサイドスーパーとサイレンの音で覆い隠した。「マル禁」と言われるこの編集手法は「パペポ」が発祥であり、後に形を変えて他の番組でも使用されていくこととなった(ただしあまりに話が長く続く場合は「そんなこんなで○分経過」の字幕もしくは砂嵐を挟んで次の話題に移ると言う手法をとった)。
「原則当日先着順」異色のスタジオ観覧募集
収録は開始当初読売テレビ旧社屋で行われ、新社屋移転後は主に読売テレビ本社第2スタジオ(収容限界人数約300名)を使用(※ただし1988年秋〜90年秋は第2スタジオを夕方の帯番組「ざまぁKANKAN!」が使用していたため、第3スタジオ(面積及び収容人数は第2スタジオと同じ)または第1スタジオを使用していた)。また、新春スペシャルの収録や春休み、収録日が祝日に当たる場合等、観客の増加が見込まれる回の収録は通常のスタジオより大きい第1スタジオ(収容限界人数約600名)を使用していた。ちなみに第1スタジオを使用する時の告知は番組内で「次回はちょっと大きいスタジオで収録します」というテロップが表示されていた。
公開収録も原則として事前申し込みが必要なく、事前に予告された収録日に配布される入場整理券を入手すれば、自由に見学することが出来た。整理券の配布は番組開始当初収録日の夕方に配布されていたが、観覧希望者がスタジオの収容限界人数を大幅に上回るファンが集まるようになり、早朝から並ぶ観覧希望者が後を絶たなくなったため当日正午配布に繰り上げられ、その後更に朝9時半に繰り上げられた(観覧希望者は朝に整理券を受け取り一度解散して、夕方に再集合していた)。
しかし、上岡の「女性最々優先!!野郎(男)どうでもええ」という趣向のおかげで、女性グループ・単独女性が優先的に整理券を受け取ることとなる。入場の際も女性が全員入りきるまで男性は入場できない(男女混合グループは男性と見なされる)。そのため、早朝から並びやっとこさ整理券を受け取った男性ファンは夕方に再集合するが、夕方受付ぎりぎりにフラ〜っと立ち寄った女性ファンが先に会場入りできるため、正午ぎりぎりに整理券を受け取った男性は入場出来ないこともあった。番組最盛期は、配布直後にも整理券が入手できないと言うことがあり、入手できなかった男性達は後日電話で申し込むと言うことを行っていたこともあった。
観客がスタジオに入場する際にスタッフから小さな座布団が手渡され、床に敷かれたカーペットの上にそれを敷いて座って観覧するスタイルで、それが1人あたりの占有スペースの目安となっていた(カメラより後方はパイプ椅子、立ち見席が用意された)。観覧スペースはほぼ毎回満杯の観客で埋まっていたが、大学の試験シーズンに当たる1月中旬〜下旬だけは普段よりも相当閑散としており、男性客も前列で収録を観ることができた。なお、最終回の収録では最終的に1600人もの観覧希望者が詰め掛け、収録に使用した第1スタジオに入りきれなかった観客は第2スタジオ及びロビーに設置した巨大スクリーンで収録の様子を見るという処置が施された、という話がある。
番組開始当初から中期頃までは両名のスケジュールの関係で2、3週分のまとめ撮りとなる場合も複数回分の収録を続けて観覧できたが、冬場に2徹した(月曜の収録を見るために土曜の深夜から並んで整理券の順番待ちをした)ファンが出現し「このままでは死者が出る恐れがある」と言う現象が起きた。この事件が起きてしばらくしてから1本目は収録当日の受付、2本目については葉書による事前申し込みで当選した者が観覧できるシステムに変更された。このシステムは朝から並べない京阪神地区以外のファンやサラリーマン、OLに対する救済措置にもなった。
ちなみに、新春スペシャルの収録が終わった後は読売テレビ1階のロビーに観覧客を集め、その前で鶴瓶、上岡、ノック各氏、及び白岩プロデューサーらが挨拶し、缶ジュースで乾杯して一年を締めくくる(新春スペシャルではあるが収録は年末に行われるため)のが恒例となっていた。また、新春スペシャルでは録画放送であるにも関らず「生放送」と嘘をつき、それを聞いた観客が笑うと鶴瓶が「何がおかしいんや」とツッコミを入れるシーンが毎年恒例となっていた。その際は、かならず「住吉神社」にみんなで行く、という設定になっていた。ジェットヘリで鶴瓶が東京から急いでやってきた、という設定も。また、大晦日の夜にフジテレビ系で鶴瓶と上岡のコンビが司会の特番が放送された年度の新春スペシャルは、日本テレビのスタジオから生中継という設定で放送された(もちろんウソ)。
番組企画・イベント
番組としてのイベントとして、大阪キタで1週間開催した「パペポシアター」(1988年)、大阪城ホールで2回(1989・92年)、日本武道館(1992年。武道館でこういったトーク・イベントは初だった)・ニューヨークでトーク・イベント(1996年)を開催した。
さらに1990年、番組で「2人が相撲をとったらどちらが勝つ?」という話から「嵐の春場所」と称し長居公園でイベントを開催し2万人を集め、客の押し合いで5人が怪我するというハプニングもあった(このときのある新聞の見出しには「救急車ピーポーパーペーポー」と書かれていた)。なお、この時の勝敗は収録で東京に行った上岡の代理で弟子のテントが、鶴瓶に5回とも倒されている(この「長居パニック」は、後の武道館イベントにつながる)。
また、番組人気が最高潮の時に番宣ポスターを制作したことがある。鶴瓶・上岡両名が上半身はタキシード姿も下半身丸出し(当然モザイク処理されている)で写っており、糸井重里が考案した『見てるあんたも同罪じゃ。』というキャッチコピーがつけられたシロモノであった。(当時はヘアヌードの解禁が話題となっていたこともあり、それに便乗したアイデアと言われている。)番組最後で葉書が読まれた視聴者にプレゼントされたが、中には「こんなもの受け取れません」と番組に送り返した視聴者もいたが、強制的に再び番組から送り返された(らしい)。
スポンサーと番組プレゼント
番組スポンサーは、開始当初は郵便局(近畿郵政局)単独で、後に郵便局を含む複数スポンサーとなり、92年に郵便局が降りて民間企業の複数スポンサーであった。このため、郵便局がスポンサーであった時代は、番組最後に視聴者からのハガキを読むコーナーで、採用された人にゆうパックによる地方特産品(ふるさと小包)がプレゼントされていた(※途中メインスポンサーに活け伊勢海老料理・中納言がなったこともあり、その際はお食事券もしくは伊勢海老1匹をプレゼントした時期もあった。中納言の降板後はハガキを読まれた視聴者に番組特製のオリジナルテレホンカードをプレゼントしていた)。
なお、郵便局がスポンサーの時代には、ふるさと小包のプレゼントを提供した郵便局の位置を記した日本地図のフリップを出していたが、中納言時代に「日本地図のフリップがなくなって寂しい」という理由で、当選者の住所と氏名を記した日本地図のフリップを作成し提示するようになった。その後しばらく経ってから、ある応募者(実はABC中邨雄二アナの妻)が自分の写真を応募封筒に同封してきたのがきっかけで、途中から当選者の顔写真を日本地図の周囲に貼り付けだしたが、半年ほどで日本地図が応募者の顔写真でいっぱいになり、収集がつかなくなったため取りやめた、という経緯もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

鶴瓶上岡パペポTVとは


鶴瓶上岡パペポTV(つるべかみおかぱぺぽてれび)はよみうりテレビが制作し、日本テレビ系で放送された深夜番組。1987年4月14日から1998年3月31日まで、よみうりテレビの本社スタジオでの公開収録という形をとって放送された。番組開始当初は毎週水曜日に収録していたが、1991年頃から月曜日収録に変更。(生放送はパペポシアター開催時と500回記念の2回だけ)。「パペポTV」としては1998年で終了したが、番組は同年7月から同趣旨の「LIVE PAPEPO 鶴+龍」に移行し、2000年まで続けられた(後述)。

よみうりテレビでの番組開始当初は火曜日の深夜24:50 - 25:45の放送であったが、後に金曜日深夜25:10 - 26:05に枠移動。その後、前番組の放送時間帯が深夜枠に食い込むに従い、25:25 - 26:20放送→25:40 - 26:35放送と少しずつ放送時間帯が遅くなって行く。最後の半年は再び火曜日の放送(深夜 25:40 - 26:35)に戻る。 日本テレビでの放送は1988年10月のネット開始当初は月曜日深夜 25:10 - 26:05に放送され、湾岸戦争時の影響による1989年12月〜1990年3月の放送休止時期を経て(1991年の正月SPだけは放送された)、復活後は当初水曜日深夜26:30 - 27:25の放送となり、2ヵ月後元の時間帯に戻り、1994年10月にいったん木曜日深夜25:40 - 26:35に移動し、1995年4月には関西と同じ金曜深夜26:15 -27:10に移動し番組終了まで続いた。 地方局での放送も深夜時間帯で、放送曜日・放送時間は地域によりバラバラであったが、テレビ金沢(石川県)に限ってなぜか土曜日の朝 9:30 - 10:25に放送されていた時代があった。(※以上の時間表記は全てJST)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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